第24回逍遙書道会展


【第24回逍遙書道会展】
2009年4月11日(土)−14日(火)イオンモール日の出 イオンホール

テーマ:芭蕉・おくの細道、これに因んだ漢詩(杜甫、李白を中心として)
作品:	毛筆(テーマ作品、創作、臨書、漢字、仮名、学生部作品、軍道和紙作品)
	公文書写作品(ペン、筆ペン、かきかた)
参考展示:	拓本(開通褒余道碑、上野三碑、多賀城碑、那須国頭造碑)
今回は、下は四歳から上は九十八歳の人まで幅広い人たちが参加しています。


【第16回逍遥書道会講演会】
2009年4月11日(土)13:00から15:00 (展示会場に同じ)

詩吟:	杜甫詩から(貧交行・春望)	日の出吟詠会	山根吼進, 山根嘉王
講演1:	芭蕉、俳句の楽しみ、旅の句	馬酔木同人	田中俊夫文学博士
講演2:	おくの細道と私	五日市書道連盟	奥森会長
講演3:	芭蕉・おくの細道その俳諧の世界	逍遥書道会      中村海洞


展示および講演会



芭蕉・おくの細道 その俳諧の世界

―第24回逍遥書道会展・講演会―
逍遥書道会 中村 海洞 

「おくの細道」は松尾芭蕉(寛永21年(1644年)- 元禄7年10月12日(1694年11月28日))により著された江戸時代中期の俳諧紀行である。芭蕉には旅で取材した著名な五つの紀行文、「野ざらし紀行」(甲子吟行)「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」「おくの細道」がある。芭蕉は、今から三百十一年前、元禄2年(1698)に門人曽良と供に関東、東北、北陸の旅をした後、自ら「おくの細道」の腹案を練り何年も稿を改め元禄7年初夏にようやく定稿ができ、芭蕉没後の元禄末年に京都の井筒屋庄兵衛が刊行した。(近年発見された芭蕉直筆野馬本をもとにして、講演とその筆跡紹介を行った。)

「おくの細道」は元禄2年(1698)3月27日門人曾良とともに江戸を出立、奥州各地を行脚し北陸を経て8月21日、美濃大垣に到り、9月6日伊勢の遷宮を拝まんとして大垣から舟で出発するところで終わる。その旅は143日六百里の旅であるが、実移動日52日間に三百九十二里1540km移動したことになる。つまり一日平均七里半、30km/dayという事になる相当な健脚の旅であり、「おくの細道」は旅をすみかとし、旅に人生の糧を求めた偉大なる賢哲俳諧師の最大にして最後の一大紀行文であった。同行した曾良の克明詳細な日記や、芭蕉の各地の俳諧をたしなむ友人、各地スポンサーへの手紙も存在し、これらから「おくの細道」は、必ずしも忠実な記録ではないこと、実際行程との違いや潤色の跡が見られることから、事実を基にしつつも芭蕉の文芸意識や創作意識を盛り込んだ俳諧紀行文学書と見られている。芭蕉の生きていた時代は当然今でいう俳句は無く、俳諧と呼ばれる俳諧連歌そのものや、その発句などを指すものであった。芭蕉に依って、俳諧が芸術の領域に高められたが、その俳風は蕉風と呼ばれた。
俳諧は俳句に取って変わられた文芸であるが、江戸時代では、俳諧は庶民の文芸としてもてはやされ流行した。囲碁や将棋などと同じく庶民の娯楽であった。俳諧とはもともと漢語の「俳諧」で「しゃれ」、「冗談滑稽な言葉」という意味で、現代中国語においても略同じ意味である。つまり、芭蕉時代の俳諧とは、滑稽なものでなければならなかったともいえる。

俳諧のルーツである和歌は、今でも宮中の歌会始めに見られるように、万葉集、古今和歌集をバイブルとする神聖な大和心を詠うものとしての存在である。室町から江戸初期において、和歌の「57577」や連歌が、俳諧連歌、俳諧「575」へと変貌して行く背景には、富裕層の勃興と無関係ではない。権威へ挑戦、和歌の神聖性への憧れと解放の複雑な市民感情とでもいうべき発露であった。つまり公家大名の至高なものから富裕市民、そして庶民の卑近なものへとその形や心を変えつつ転換され俳諧として広がった。貞徳や宗因らを経て、松尾芭蕉に至り芸術的な俳諧にまで高められた。
はげしかれとやほゆる声々 うかりける人を初瀬の山の犬     (『鷹筑波』)
いうまでもなく、これは「千載集」の源俊頼の「うかりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを」をパロディー化し、滑稽を狙った俳諧である。そもそもが俳諧は滑稽を背負った文芸では有ったが、やがてはこのような上っ面の引用やパロディーではマンネリ化し、陳腐へと堕落する宿命からも逃れられない存在であった。
芭蕉は、日本古典文学や、漢文漢詩の手法を使い、あるいは文を引用して、パロディー的マンネリ化した俳諧を打破して新生面を打開き、後に蕉風と呼ばれる文学性の香り高い俳風を打ち立てた。「おくの細道」は、和歌の心を検する歌枕の旅であったが、その紀行文は源氏物語などの日本古典文学や、杜甫、李白の中国文学の影響が随所に見られ、それらが渾然一体となって見事なあやを織りなしている。芭蕉時代には、既に数多の漢籍が請来されており、漢学者を中心に盛んに読まれていたことは一般に知られていない。今では芭蕉が読んだと考えられる漢籍の実態が相当に明らかにされている。
しかし、俳諧は芭蕉以降、天明の俳諧(与謝蕪村)化政幕末の俳諧(小林一茶)へと引き継がれてゆくものの、結局低俗化も進行した。これが現在の俳句へと革新され再スタートされるのは、明治になって正岡子規によってである。
日本人の心に潜む75のリズムいわゆる七五調は、江戸期における宣長などの国学者達の和歌、近松の浄瑠璃や歌舞伎、あるいは西鶴の小説、そして民衆化した俳諧の根底に流れることにより、日本人の心底に、より一層根付かせたであろう。俳諧の庶民化はその一翼を担ったのであった。

今回の、逍遥会書道展及び講演会は、当地あきる野にある江戸寛永年間に建立された芭蕉句碑にスポットを当て「おくの細道」をテーマとして取り上げました。興味深いことに、この碑は江戸時代、関東の一隅の「あきる野」にも俳諧文化が存在したという時代の証なのです。また、この建碑者は五日市憲法で有名な、あの深沢権八の祖父あったという事も更なる興味を呼び起こします。 今回の講演会では田中俊夫文学博士は、芭蕉の旅と俳句を主題に、五日市書道連盟奥森会長は北陸紀行をした時の芭蕉への感慨を、中村海洞は、プロジェクターを使って芭蕉の俳諧の文学史的位置づけと「おくの細道」・芭蕉庵から、深川、千住、室の八島、白河の関を中心にした関東地方における紀行と、当地あきる野の芭蕉句碑についての講演を行いました。
また、逍遥書道会も研修旅行として、過去何回か芭蕉庵推定跡をはじめ各地記念館、遺跡を探訪をしており、これらの時の様子やスライド写真で身近なテーマとして皆さんに感じていただきました。



主催 逍遥会(あきる野文化連盟所属団体)
戻る inserted by FC2 system