第26回逍遥書道会展


【第二十六回逍遥書道会展と講演会】
2011年4月9日(土)〜12日(火)イオンホール(イオンモール日の出2階展示室)

毛筆(テーマ作品,年間作品,創作,臨書、漢字,仮名,学生部作品,軍道和紙作品)
公文書写作品(ペン、筆ペン、かきかた)
老健施設ファミリート日の出書道部作品


【講演会】
2011年4月9日(土) 13時から15時

テーマ:『論語に親しむ・あきる野の碑に見る論語』
パフォーマンス書道(あんな夢こんな夢)	逍遥書道会	子供生徒有志
詩吟:  古典に親しむ(『論語』)	日の出吟詠会	山根吼進、 山根嘉王先生
講演1:	関東武士の発生とあきる野	あきる野文化連盟	森信保先生
講演2:	論語に親しむ・あきる野の碑に見る論語	逍遥書道会	中村海洞


展示および講演会





第二十六回逍遥書道会展と講演会

逍遥書道会 主宰  中村海洞
春季恒例の逍遥書道会展が、平成二十三年4月9日から12日まで、講演会が4月9日、イオンモール日の出のイオンホールにて開催されました。今年はとくに、三月十一日に東北大震災という未曽有の悲しい災害が発生した後の開催でした。東北から北関東にかけての太平洋岸の地震による津波の発生と、その余波である原発事故は説明するまでもありません。関東地方一円においても停電や電車不通、電話、携帯やメールなどの電子通信等々のインフラ障害が長期にわたり発生し、石油などの生活物資が不足するという大混乱が発生しました。それらの対応処置が長引く中、私の関係する大学や大学院在学の留学生達は次々に母国に帰国するほどでした。我々の逍遥会書道展や講演会も、一時は中止にするもやむなしかと思ったほどです。震災から二十日経ち、四月に入っても依然として放射能飛散は続き社会不安は続くものの、地震やインフラ事情は好転し石油や物資不足の解消に向かうなど世の中は安定化の兆しをみせはじめましたので、書道展と講演会の開催に踏み切りました。自粛、自粛で沈滞したままでは世のためにならない、微力ながらできる者から日常性を取り戻すべきだとの想いからです。「会期中に停電が発生もしくは見込まれる場合、即座に中止し、主催者側が観客を避難誘導して安全確保する」という大方針を出し、招待講師の先生や会場側や会員の皆さんのご了解のもとで開催することにしました。幸い皆さんの篤いご声援のなか、無事大成功裏に終わることができ安堵しております。

逍遥書道会アトラクション 『論語』 詩吟            日の出吟詠会

逍遥書道会のメンバーが中心となり、企画をたて、展覧会初日の講演会アトラクションとして詩吟を行いました。詩吟の題材は書道展と同じ『論語』から選びました。これらの題材は、書道作品題材とも一致し、題材も内容も極めてみなさんになじみ深いものを選びました。演題と演者は次の通りです。
「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す・・・」(『論語』学而篇第四則)    小宮嘉報(和子)
「子曰く、吾十有五にして学に志す・・・」(『論語』為政篇第四則)    山根嘉王
「子曰く、三人行けば必ず我が師有り・・・」(『論語』述而篇第二十一則) 山根吼進(衛海)

第十七回逍遥書道会講演会

     

講演1:「武蔵武士とあきる野」                 あきる野文化連盟  森 信保先生

武蔵武士とあきる野のかかわりをテーマとし、東国・坂東の律令時代の多摩地域の状況と、国府と神社との関係について述べ、武蔵の国に設けられた「牧」とそれに密接に関係する騎馬集団としての武士の萌芽をのべる。『延喜式』によれば武蔵国には6つの「牧」が記載されるが、そのなかの一つ「小川牧」が当地「あきる野」に在ったとされている。この「小川牧」を拠点にしていたのが小川氏、二宮氏と呼ばれる人達で、後に関東武士団武蔵七党と呼ばれた西党(日奉氏一族)に?がって行く者達であった。氏族の名前は現在の地名、字にその名前を残している、というのが講演の趣旨でした。

講演2:「論語に親しむ・あきる野の碑に見る論語のこころ」    逍遥書道会主宰   中村海洞

中村海洞は当地あきる野に残された碑文を探査し、その碑文中に見る『論語』を取り上げての基調講演を行った。
二宮金次郎報徳碑や、忠魂碑、紀念碑などを取りあげ『論語』のこころを論じた。(詳細は別紙)

アトラクション パフォーマンス書道          逍遥会パフォーマンス隊

「来年もやって欲しい」、「来年もやりたい」の期待の声に応じて今年もパフォーマンス書道が、逍遥会パフォーマンス隊によっておこなわましれた。テーマは「ふるさと-郷」「さくら-桜」「やさい-菜」の三題を演じました。
「ふるさと-郷」では、ヴォーカルグループ嵐の「ふるさと」の歌に乗って、井上直紀(西中1年)が「郷」の題字を200x270cmの巨大紙に一杯に豪快に書き、小峰樹羅(西秋留小5年)が「あきる野に元気」と書きました。
「さくら-桜」では矢治佳音(大久野中2年)が、AKB48の「桜の木になろう」の歌に乗って「桜」の題字を書き、リレーで小峰沙羅(西中1年)が「がんばれ」、越沼真由(大久野小6年)が「まけるな」と書き、題字の周囲に桜の花弁を書きました。最後の「やさい-菜」は、おなじくAKB48の「野菜シスターズ」のテーマに乗って矢治美穂(聖パウロ学園高1年)が「菜」の題字を力いっぱい書き、井上直紀と小峰沙羅は野菜の名前を紙面一杯に書きました。今年も大勢の観客の声援の中で行われ、大好評でした。これら三題の作品は会期一杯、会場内に展示いたしました。

第二十六回逍遥書道会書道展

テーマ: 『論語に親しむ』
作品:  毛筆(テーマ作品、年間作品(創作、臨書、漢字、仮名)、学生部作品、軍道和紙作品)
公文書写作品(ペン、筆ペン、かきかた)
テーマ作品は『論語』から学校教材や日常の中で用いられている題材を中心に選び、『論語』を漢字や仮名交じり文の体裁で制作しました。我々の日常生活に溶け込んだ『論語』を、改めて『論語に親しむ』の思いで作品化しました。これらの内容は、講演会や詩吟で吟じた内容などと重なり効果的演出の配慮をはかりました。
(以上文責中村)

会員の感想

「パフォーマンス書道・達成の喜び」               逍遥会    中村和子
第二十六回逍遥書道展が四月九日から十二日まで、日の出イオンモールの二階イオンホールで開催されました。九日は講演会で、講演会の前後にアトラクションの詩吟と、パフォーマンス書道が行われました。私は、受付・接待や、パフォーマンス書道のサポートとしてお手伝いしました。
講演会の開始にあたりダイ先生(海洞先生)の「悲惨な震災に負けず、あきる野から元気を送りましょう」の開会の言葉通り、直前の不幸な震災をものともせず、今年も昨年に負けない盛会でした。パフォーマンス書道でも子供たちによって生き生きと元気なパワーが送られました。パフォーマンス書道は、6人の逍遥会パフォーマンス隊が、嵐の曲「ふるさと」で「郷」を、AKB48の曲「桜の木になろう」で「桜」を、同じくAKB48の曲「野菜シスターズ」で「菜」を、曲に合わせて、大きな紙に書いてゆきます。
当日本番前、ダイ先生の指導でパフォーマンス書道をする手順の確認のすり合わせがありました。黒字白ぬきの「逍遥」の文字がバックプリントしてあるTシャツをお揃いで着ると、一気に気合が入りました。重い濃墨の入ったバケツを持って、子供達を思いやり的確に動く配慮はとても大切な仕事であることを実感しました。
曲は全部で三曲でしたが、瞬く間に終わり、パフォーマンス隊は、気が付くと、手や足が墨だらけで、一生懸命に完成させた充実感に満ちていました。無事成功を喜ぶパフォーマンス隊の姿を見て、私達サポートはしばし心地よい解放感にひたりました。

「パフォーマンス題字・筆が重かったが夢中で書いた」          大久野中2年 矢治佳音
昨年に引き続いて、今年もパフォーマンス書道をやると聞いて私はとても不安でした。それはなぜかと言うと、元々私は人前で何かをするのは苦手だし、今回は去年と違って題字を書く大役のリーダーの一人に決まったからです。最初は「本当に私で良いのか」とか「上手く書けなかったらどうしよう」などいろいろな不安の気持ちでいっぱいでした。練習したての時も、ダイ先生に教えてもらった部分が上手くゆかずにひとり落ち込んでばかりいました。でも沢山練習してゆくうちに、どうやって書けばいいかというのが分かるようになりました。本番になり、私の出番が来ると一気に緊張してしまいました。筆を持つとズッシリと感じられ、とても重かったです。書いている時は、ダイ先生に教えてもらったことを思い出しながら、夢中になって書きました。何とか大役をはたせて、書き終わってほっとしました。来年は今年よりもっと上手く書けるようにがんばりたいです。

「パフォーマンス書道・みんなで選んだ曲とテーマ」            西中1年   小峰沙羅
パフォーマンス書道をやるのは今年で二回目でした。今年は、パフォーマンス書道で何をやるかをパフォーマンス隊みんなで話しあって決めました。春の桜の季節だからAKB48の「さくらの木になろう」を。、「あきる野」に思いをよせて[嵐]の「ふるさと」を、歌ののりが良く元気が出る曲ということでAKB48の「やさいシスターズ」が選ばれました。
私は「さくら-桜」「やさい-菜」の二つにサブリーダーで参加しました。「さくら-桜」では「がんばれ」という文字を書きました。「がんばれ」は練習を一回もしていなくて、とても緊張しました。「やさい-菜」では、曲の「野菜シスターズ」に出て来る野菜の名前「トマト」「キャベツ」「ニンジン」「かぼちゃ」「なす」などいっぱい書けたのでよかったです。

「桜・まけるな日本」                        大久野小6年 越沼真由
私は、パフォーマンス書道に参加しました。やる前いろんな人が見に来てドキドキしました。私は「桜」担当で「まけるな(日本)」と書きその後に桜のはなびらを書きました。一枚ちっちゃくなったけどどうにかうまく書けました。書き終わったら、大きな拍手が起こりすごくうれしかった。家族にもほめられたし、ダイ先生や、りこう先生達にもほめられました。パフォーマンスは楽しいので、またやりたいです。次はもっともっとじょうずに書きたいです。



『論語に親しむ』・あきる野の碑に見る論語のこころ 

―― 第二十六回逍遥書道会展・講演会より抜粋 ―― 
逍遥書道会 海洞 中村 薫
(1)はじめに
『論語』について、大阪大学名誉教授 博士加地伸行先生は次のように語っている。
『論語』は東北アジアにおける最高の古典である。 古典は、人々に智慧を与え、生きる力の源となっている。古典にはいつの時代にも、また誰に取っても共通のことばが豊富に残されている。すなわち古典は常に現代と交響しているのである。(『論語』増補版 加地伸行 講談社)
『論語』は、『日本書紀』によると応神天皇の時代に日本に千字文とともに伝来した。それ以来、私達日本人は古典である『論語』に親しんできた。例えば、飛鳥時代に聖徳太子の十七条の憲法で有名な「和を以て貴しとなし・・・」は『論語』(学而篇)からの引用である。平安時代に遣唐使で入唐した空海の筆跡として残されている「崔子玉座右銘」の「己の欲せざるところ人に施すなかれ」の出典は『論語』「顏淵篇」からである。座右銘としても『論語』が貴ばれていたことが解る。また清少納言の『枕草子』では「二月、官の司に、 定考 かじょう といふ事するは何事にかあらむ。 孔子 くじ など掛け奉りてする事なるべし。」(訳:太政官庁で定考といふ事をしているがなにをやっているのであろうか。孔子と十哲の画像を掛けて釋奠のまつりをする事であろうか。第132段)とあり、平安宮中では孔子の祭典を行って来たことが述べられている。貴族達は孔子を崇め『論語』を学んでいた。中世においても兼好法師の『徒然草』に「『紫の、朱奪ふことを悪む』と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり」 (訳:御所で、『紫の、朱奪ふことを にく む』と云ふ文をお見せしたいことがあり、『論語』の本を見ているが、見つけだすことが出来ない。第238段)とあるこの引用された、『紫の、朱奪ふことを悪む』の出典は『論語』(陽貨篇)であり、中世においても御所や貴人の間では『論語』が日常に語られていた事が解る。
近世においても、徳川家康が家訓とした「人の一生は重き荷を背負いて遠き道をゆくが如し」の出典は(「士は以て・・・任重くして道遠ければなり・・・」『論語』(泰伯篇) からであり、江戸時代の漢学者達がしきりととなえ今日でも使われる「温故知新」の出典は『論語』(為政篇)である。
『論語』は加地先生が論じておられるように、我々日本人に取っても何時の時代にも誰に取っても共通の言葉として、今に交響し、今に息づいているものであった。『論語』の語句や、その思想は単に文学に止まらず、政治理念や我々の生活の行動規範に至るまで「人々に智慧を与え、生きる力の源」としてのものであった。今回の逍遥展テーマを『論語に親しむ』として、当地あきる野に残された碑文に見る『論語』の中から、現代に生きる我々を振り返り、往時の人々の「こころ」を考えてみたい。そして、これらの内容は、単に「あきる野」の一地域に止まらず、日本全国津々浦々に存在する碑文にもまた同じような「こころ」が述べられているであろうとの思いより、ここに記すものである。

(2)あきる野の碑に見る『論語』
@五日市小学校二宮金次郎像 と報徳碑(皇紀二千六百一年四月建設)
(図2)
二宮尊徳
(図1)
二宮尊徳
五日市小学校(あきる野市五日市)(図1.図2)や、増戸小学校(同市増戸)、西秋留小学校(同市上代継)などの小学校に二宮金次郎碑が今なお大切に保管され、小学校児童を見守るかの如く静かにたたずんでいる。それは写真に見られるように薪を背負い、読書勉学に励む勤労少年の姿で表現され、二宮金次郎のような立派な人間となるようにという建碑者達の想いをそこに見る。この碑台には「報徳」(徳に報ゆ)と書かれている。「報徳」の出典は『論語』(憲問篇)である。
五日市小学校の像の建立は皇紀二千六百一年(昭和十五年,1941)とある。

二宮尊徳(天明七年(1787)〜安政二年(1856))について
二宮尊徳(金次郎)は江戸後期の農政家である(通称は金次郎)。相模国 栢山 かやま 村(現小田原市)の農民の子として生まれ、はやく父母と死別した。農作業を手伝いながら独学で読み書き・算術をおぼえた。ひと一倍働き、刻苦努力し蓄財して二十歳の時生家を再興した。才覚がみとめられ文政元年(1818)小田原藩の家老服部家の財政立て直しをまかされ、きびしい倹約と小田原藩からの借用金運用に依り成功させた。その方法は ます の統一も意見具申実施したことに見られるように公平公正をむねとした。小田原藩から分家旗本の宇津家の財政再建を命じられ、その領地である下野国桜町領(現栃木県二宮町・真岡市)へ移住して荒廃した農村の復興に取り組み、天保の大飢饉(1833〜36)を乗切って桜町領の再興をなしとげた(天保八年(1837))。尊徳から指導をうけた農民も、小田原藩領や北関東・東海地域の農村で「報徳仕法」とよばれる報徳の実践をおこない、下野国烏山藩・陸奥国相馬藩・小田原藩でも実施された。天保十三年(1842)に御普請役格で幕府にとりたてられ、嘉永六年(1853)日光神領での仕法を命じられ、安政二年(1855)今市(現日光市)に移るが、翌年死去する。

二宮尊徳の「報徳」の教えについて
二宮尊徳の「報徳」の考えの出典は、『論語』からのものではあるが、尊徳翁は、より普遍的で社会愛に満ちた尊徳翁独自ともいうべき人生観が見られるものに昇華させた。「報徳」は、『論語』憲問篇では以下のように述べられている。
「或曰、以コ報怨、何如。子曰、何以報コ。以直報怨、以コ報コ。」『論語』(憲問)(訳:ある人が質問した、「 かたき への怨みに(怨みで報復するのでなく)恩恵を与えて解決するのはいかがでしょうか」と。老先生はこうお答えになられた「それなら(自分が受けた他者からの)恩恵に対しては何をもってお返しするのだ(怨みにも恩恵にも、お返しは同じになってしまうではないか。)怨みには、怨みのそのままの気持ちを、恩恵には恩恵を、ということでよい」と。)
しかし、尊徳翁は独自の観点から「報徳」の思想を展開している。尊徳の「報徳」の教えは、至誠、勤労、分度、推譲という四つの行動からなり、勤労・勤勉、倹約(文度)、奉仕・博愛(推譲)をもって国も人も豊かにすることを旨としている。 至誠とは、道心にそった「こころ」の状態を誠(至誠)とよぶ。『論語』で言う徳や仁にあたるものであり、勤労とは、至誠の状態で日常生活のすべての選択を行っていくことを勤労とよぶ。分度とは至誠から勤労した結果、自然と使わざるをえないもののみを使うこと。推譲とは、最後に分度して残った剰余を他に譲ることである。分度は個人の裁量の世界と為らざるを得ないが、推譲は単なる贈与ではなく、至誠・勤労・分度の結果、残ったものを譲ってはじめて推譲となる。単なる金持ちの剰余の恵みではないことが極めて特長のある考えである。
出典である『論語』では、孔子は処世の均衡を重んじて怨みにはそのままの気持ちを、恩恵には恩恵をお返しすればよいという。孔子は均衡を重んずる現実主義経世的観点から「怨」や「恩」に対する接し方を個と個の関係で述べている。尊徳翁は個々の「怨」や「恩」の応酬を越えた社会愛ともいうべき崇高な社会行動規範の観点で述べる。社会には貧困・困窮があり、全ての人に推譲することで豊さを分かち合う理想的社会を目指したのである。この「報徳」の教えは幕末から明治期に各地に広まり、明治政府の農業政策とむすびついて全国に普及した。


二宮金次郎像 について
(図3)
二宮尊徳
明治二十四年(1891)文豪幸田露伴著『二宮尊徳翁』の挿絵によって薪をかつぎ読書にはげむ少年二宮金次郎像(図3)が提示されたことに始まる。これが国定教科書に採用されたことで修身・道徳の教材としてひろく知られるようになり、挿絵を基に像が作られ、全国の小学校の校庭に金次郎の銅像がたてられた。(「マイクロソフト・エンカルタ97エンサイクロペディア」)。第二次世界大戦後、GHQ指示により日本の紙幣の一斉変更指示が出され、神宮皇后、吉備真備、竹内宿禰、楠正成等の戦前の価値観やイメージを残す紙幣が廃止され、再建する新生日本の象徴として二宮尊徳(金次郎)は一円紙幣として昭和二十一年三月に発行された。

A阿伎留神社岸忠左衛門顕彰碑 (昭和四十三年建碑)

B阿伎留神社 忠霊塔  (昭和三十年三月建碑)(図5)
(図5)
阿伎留神社忠霊塔

C阿伎留神社祈念碑(明治三十九年 五日市村建碑)(図6)
(図6)
阿伎留神社祈念碑


D雨間大塚 日露戦役功烈之碑   (明治三十九年 東秋留村建碑)


(3)まとめ
○『論語』を生みだした儒教は、土俗的宗教祭祀儀的なものから出発し、孔子により普遍化され人間が生きて行く上での社会生活の行動規範に高められ、孔子の死後門人達により『論語』にまとめられた。 漢代に儒教は国家の根幹の思想・学問となり、周辺諸国に伝播した。
○『論語』は応神天皇時代に百済の博士王仁に依ってもたらされた。『論語』は継体天皇、欽明天皇、聖徳太子時代記事に見られる様に常に受容され日本文化に沈潜し続けた。現在の「あきる野」に存在する報徳碑、忠魂碑、顕彰碑、記念碑などにも『論語』の「こころ」を見る。
○二宮尊徳は、天明の大飢饉すらも乗り切り数々の農村復興政策を指導し成功させた農政家である。独学で打ち立てた「報徳仕法」は、ひとが豊かに生きるための知恵であり、「徳」の実践といえる。二宮尊徳の「報徳」の社会愛に満ちた崇高な社会行動規範には、忘れてはならない日本人の「こころ」の原風景を見る。
○忠魂碑は、国威発揚のためではなく、死者の魂を鎮めるための祖霊信仰の系譜に属するものである。地域の人が地縁に繋がる戦没者を祭る日本古来の文化(地蔵尊、道祖神など)を受け継ぐものであった。
○顕彰碑、紀念碑、戦役功烈之碑、これらは形こそ違え、地域の発展や、地域を代表して国に尽くした人々を顕彰するものであり、地縁のもの達が浄財を集めて建立し、今にいたるまで大切に保存されてきたものである。

「忠」とは、人のために実をつくすこと。まごころ、誠意をつくすこと。「勇」とは、勇気、まともに事にぶつかる気構え、「徳」とは、ものに備わった本性、生まれつきのすぐれている「ひとがら」、本性の良心をみがきあげたすぐれた人格である。 これらの石碑に刻まれた言葉は、如何なる時代にあっても、人間として大変重要な意味合いを持つ言葉である。先の戦争を否定するあまり、大切な心まで捨て去ってはならない。



主催 逍遥会(あきる野文化連盟所属団体)
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